マンチェスター・ユナイテッドの香川真司、インテルの長友佑都に続き、本田圭佑がACミランの背番号10を背負うことになった。サッカーの本場・ヨーロッパの名門チームで日本人選手が活躍を見せる中、ローマで人気のイタリア料理店「TRATTORIA DEL PACIOCCONE」が話題になっている。営むのは日本人シェフ、高波利幸氏だ。引き続き、「侍シェフ」の生き様に迫る。

 
 

人生最大のピンチ

――大活躍の高波さんですが、実はここまで順調だったわけではないとも伺いました。

高波 専門学校に通い、イタリアレストランでの修行を積みながら、東京で7年間を過ごしました。そして、故郷の新潟・上越市に戻り「LA PENTOLACCIA」を開いたのが、25歳の時でした。今から20年あまり前、1993年のことです。
1995年には新潟市内に2店舗目となる「ALLA VECCHIA PENTOLACCIA」を開業、1998年には東京・南青山に「IL PACIOCCONE」を出店。いよいよ東京進出も果たし、経営は順調に推移しました。
そんなときに、森ビルから六本木ヒルズへの出店要請をいただいたんです。出店資金として3億円を用意するから、好きなように店をつくってほしいという話でしたから驚きました。
改めて海外に行って色々調べることにしました。その時、NYで流行していたデリカデッセンに興味があったからです。
もしかすると、そのまま六本木ヒルズでやっていたらうまくいっていたのかもしれませんが、六本木出店のための予行演習を新潟でしようと思ったのが失敗でした。1億円を使って設備投資し、人件費もかけたのですが、毎月250万から300万円の赤字が続きました。気づけば累積赤字と負債は3億円になっていました。
最初の出店からおよそ10年目。この時が人生で最大のピンチでした。
 

――会社の倒産や自己破産は考えなかったんですか。
高波 考えました。しかしとにかく、両親や家族に申し訳ないという気持ちが強かったんです。周囲からもさまざまなアドバイスをいただきました。ここでなんとか踏みとどまらなければと思い直しました。
それで、従来のスタイルでイタリア料理店をやっていくしかないと開き直ったんです。もちろん、六本木ヒルズへの出店はお断りしました。
キャストたちにも改めて「申し訳ない。もう一度地道にやり直すことになるが、力を貸してほしい」とお願いしました。もちろん去って行く人も少なくありませんでしたが、「やります」「頑張りましょう」と返事をしてくれたキャストたちもいました。彼らには今でも本当に感謝しています。
 

――そこからどうやって立て直したのでしょうか。

高波 2006年のことです。川崎の『ラ・チッタ・デッラ』に出店しないかというオファーをいただきました。イタリアを意識した街並みを再現しているのですが、見に行った当時は閑散としている印象で、正直なところ集客に不安を感じました。断ること3回、それでも熱心にお誘いいただき、最終的に条件も見直されることになって出店することを決めたのです。
ところが、この店が大繁盛することになりました。起死回生のV字回復を遂げるのです。
オファーをいただいた1本の電話からすべてが生まれかわりました。人生はわからないものです。
 
 

イタリア出店への道

――いつからイタリア出店を意識するようになったのでしょうか。

高波 経営も持ち直し、「本場のイタリアを感じたい」と、店のキャストたちとともに年に1度イタリア旅行に行くようになりました。旅費は全て個人負担ですので、社員旅行とは呼べないんですけどね(笑)。
そうやってイタリアに行った時に、ワインを買い付けて、自分たちの店のワインは自分たちで直接仕入れるようになりました。そうすると、お客様にお出しする時の思い入れが全然違ってきます。
そこで、生ハム、チーズ、オリーブオイルなど、あらゆる食材について、自分たちで現地に行って選んだものを直接仕入れるようになりました。インターネットでよさそうなサイトを見つけては、実際現地に会いに行って勉強してくるというわけです。
こうして繰り返し行っている内にイタリアを身近に感じるようになるとともに、私たちもいつか「イタリアに店を出せたらいいね」という話をするようになりました。
 

――そうは言っても簡単はないですよね。

高波 たまたま「イタリアに店を出したいと思っている」という話をしてみると、川崎のラ・チッタ・デッラのオーナーのご主人がイタリア人だとわかり、しかもローマに所有している物件があると教えてくださいました。この物件は大変立地もよかったのですが、残念ながら飲食店の営業ができない物件だとわかりました。
しかし、一度心に火がついてしまうと、私もおさまりがつきません(笑)。
インターネットで検索すると、日本人が経営している「イタリア不動産」という不動産会社がヒットしました。その方に早速お願いをして物件を探してもらい、紆余曲折を経ながらも今の物件を見つけることができたのです。
 
 

イタリアからの洗礼

――イタリアに出店するために苦労したことは。

高波 私たちが招かれて行っているわけではない、ということです。
特に大きかったのはビザの問題です。イタリアで労働ビザをとるのは大変だとお話しました。そこで私たちは現地法人をつくることにしました。本社から出向することにすればビザも発行されやすくなるからです。
しかし、現地法人をつくると一口に言っても、銀行で口座をつくるのもイタリアでは大変です。弁護士や会計士などいろいろな人の手を借りなければなりません。しかし、困ったときに必ず救世主が現れるものです。イタリアで非常に強い人脈をもっている方に助けていただくことで、難題が解決できました。
2012年2月、ローマに物件が見つかり、契約などを済ませて一時帰国。5月末、労働ビザが発給されたということでイタリアに再び向かいましたが、頼んでいたはずの改装は全く手つかずの状態でした。あと1ヶ月でオープンしなければなりません。そこからあわてて新たな工事業者を手配し、私たちもその工事を手伝って準備を進めました。
フォークやスプーンといったものを大量に購入した際も、10箱あるはずの段ボールが8箱しか届かないということがありました。途中で盗まれてしまったのです。日本で安いものを購入して持ち込んだのですが、輸入品課税がかかり500円のフォークが結局1500円になってしまいました。
 

――それは、イタリアらしいエピソードだともいえそうですね(笑)。

高波 ええ、しかもまだこれで終わりじゃないんです(笑)。6月26日のオープンを前にして、開店まで1週間を切った6月20日に絶望的な事件が起こります。
イタリアでは街の景観を大切にすることもあり、建築許可をとるのが大変なのですが、オープンに間に合わせるために先行して工事を進めていました。すると役所の人間が来て、「許可も下りていないのに、勝手に内装や看板を変更するのはダメだ」挙げ句の果てには「許可がなければ営業はできない」と言うのです。これには参りました。なんとか事情を説明して交渉し、やっとのことで営業にこぎつけました。
日本でお店をつくる労力の何十倍ともいえる苦労を経験したと思います。それはまさにイタリアからの洗礼でした。
 
 

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<プロフィール>

高波 利幸(たかなみ・としゆき)
Takanami_profile1968年新潟県上越市生まれ。中高時代は陸上部に所属し800メートルでは県の強化選手として活躍。高校卒業後、服部栄養専門学校で料理を学ぶ。在学中のヨーロッパ研修でイタリアに惹かれ、イタリアレストランで修行を積む。7年間の東京生活の後、新潟に帰郷。1993年4月イタリアレストラン「LA PENTOLACCIA」を開業。青山、川崎などで系列店5店舗を経営。2012年には本場ローマに「TRATTORIA DEL PACIOCCONE」を出店。2014年9月には銀座に新店舗をオープン予定。昨年、『有言絶対実行!描いたビジョンの実現力「僕はローマにイタリア料理店を出す!」』を出版。クオルス株式会社代表取締役(千葉商科大学サービス創造学部公式サポーター企業)。
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