「みなさんはどんな夢を持っていますか? 私はあきらめなければいつか夢は必ずかなうものだと思っています」と話すのは、アテネパラリンピック金メダリスト・高橋勇市氏、全盲のランナーだ。20歳で視力を失ってからは生きる気力を失い鬱々とした日々を送っていたが、マラソンに出会って再び人生に光を取り戻した。そんな彼が乗り越えてきたもの、そして今の夢を語ってくれた。
小学校の運動会が「満足感と達成感」の原体験
小学5年生の運動会の時、100メートル走でビリになってしまったんです。病み上がりの状態で出場したせいなんですが、学年で一番足の遅い男の子にも負けて、悔しくて悔しくて泣きました。それから毎日少しずつ走るようになったんです。1年後、学年で一番足の速い男の子を抜いて見事1等賞になりました。1年間努力して1等賞を獲った。その時の満足感と達成感は今でも忘れられません。
中学校では陸上部に入部したものの、短距離走ではいい成績を残すことができませんでした。その代わり、学校内のマラソン大会では頑張りました。理由はメダルが欲しかったから。練習を重ねて、3年生でようやく3位に入りました。ところが学校の予算の都合で、もらえるはずのメダルがもらえなかった。そんなことに腹を立てて高校では帰宅部を選んでしまいました。
高校時代は学校から帰ってきて家業の農業の手伝いをする、陸上とは無縁の緩やかな日々を送っていました。ところが2年生の時に「白点状網膜症」という病気を持っていることがわかり、医師から「20歳で失明する」と宣告を受けたのです。
自殺も考えた、何も見えない日々
それから日に日に視力が落ちていきましたが、初めのうちは見えるふりをして学校に通っていました。見えないということが恥ずかしくて友人にも話せませんでした。黒板の字が見えるふりをしてノートを取ることもありました。でも、本当は答案用紙のマス目も見えない。結局、入試に合格できず、農機具も運転できなくなって家業も継げなくなった。将来何ができるのかわからない中で次第に自分の殻に閉じこもり、とうとう自殺まで考えるようになりました。
そして、カッターナイフを手に「死んでやる」と叫んだある日、母に泣きながら言われました。「世の中に目が見えない人はたくさんいる。でも、みんな夢を持ってあきらめずに生きている。生きていれば、いつかきっといいことがある」と。
泣いている母の姿にとても心が痛み、仕方なく助言を受け入れ、行きたくなかった盲学校に通うことにしました。マッサージを習って社会人にもなりました。でも、相変わらず盲人である自分を人には見られたくなかったし、何の夢もない毎日を過ごしていたんです。
パラリンピックの存在を知ったことが転機に
そんな自分が変わったのは、1996年のアトランタパラリンピックで日本人が金メダルをとったというニュースを聞いてからです。小学校の時にイキイキと頑張って練習していた姿を思い出して、あの時のように走ってみたい、自分もパラリンピックに出てメダルを取りたい、と強く思うようになりました。
でも、目が見えないのにどうやって練習をしたらいいのかわかりません。最初は友達の自転車の荷台につかまって走っていました。そのうちバイクと併走するようになったんですが、とにかくガソリン代が馬鹿にならない。そんな愚痴を馴染みのタクシーの運転手に話したら、タクシーで併走することを申し出てくれました。あとでタクシー代をしっかり請求されたのでバイクより高くついてしまいましたが……。
でも、タクシーの窓に手をかけて走っている姿が名物になっていたようで、ランナーの方が併走を申し出てくれるようになりました。初めて人対人で練習することができて世界が開けました。そうして仲間が増えていき、記録もぐんぐん伸びていきました。
パラリンピックに出たい一心で頑張り抜く
ところが、2000年のシドニーパラリンピックの代表を目指して練習していた矢先、転倒して股関節を骨折してしまいました。医者からは人工股関節を入れるよう勧められましたが、それでは二度と走れなくなってしまう。そこで、私は3カ月間、全くベッドから動かずに完全に股関節の骨を固定して、そこからリハビリをする方法を選択しました。3カ月間は用を足す時もベッドの上、その後の半年間は股関節と膝に激痛を伴うリハビリをしなければなりませんでした。うまくいくかわからない一か八かの賭けでしたが、パラリンピックに出たい、その一心で頑張り抜き、ついに練習を再開することができました。
気がつけば、目の見えない姿を人に見られないように隠れて外出していた僕は、いつしか白い杖をついてどこにでも堂々と出て行けるようになっていました。
伴走者と沿道の声援が走り続ける力になる
伴走者という仲間と、沿道からの「目が見えない人、頑張って」という応援の声に元気づけられ、2004年のアテネパラリンピックで金メダルを獲ることができました。2008年北京、2012年ロンドンパラリンピックにも出場しました。現在50歳。今の夢は来年のリオ・デ・ジャネイロ、そして5年後の東京パラリンピックで日本代表になることです。もちろん年齢的には厳しくなりますが、健常者なら60歳になってフルマラソンを2時間半で走る人もいるんです。それなら自分にだってできないことはない。そう信じて、夢を持って、今もこれからも練習を続けていきます。
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千葉商科大学サービス創造学部で、中村聡宏専任講師が担当する講義「スポーツ・エンターテインメントサービス論(愛称:Cheers!)」のゲストスピーカーとして登場した高橋氏。
高橋氏の言葉を受けて、学生たちはどのような思いを持ったのか。
山下友輔くん(サービス創造学部3年)「自分にできないことを見つけるよりも、できること、自信を持っていることに胸を張ろうと改めて考えることができました。高橋さんはこちらをしっかりと眼で見て話してくれているかのようで、カッコいいなと素直に思いました。」
齋木萌木さん(サービス創造学部3年)「高橋さんにお会いでき、ポジティブな考え方を新たに学ばせていただきました。どんなことでもポジティブに捕らえられると、いつでもどんなことでも明るく楽しい方に考えられるようになると思いました。たくさん笑わせてくださり、元気ももらいました!ありがとうございました。」
荻島拓巳くん(サービス創造学部2年)「今まで夢を諦めてきた結果、夢が持てなくなっていました。高橋さんのお話を聞いて、夢がどんなに希望となるのかを思い出しました。もう一度夢を見つけ出して、その夢を今度こそ諦めずに目指していきたいです。」
下川佑也くん(サービス創造学部2年)「高橋さんのマラソンに対する思いには衝撃を受けました。私は楽器をやっていて壁がなかなか越えられないのですが、挫折しても挫折しても何度でも挑戦する姿に、とても元気をもらいました。失ってしまったものばかり見るのではなく、今できることを探していけるような人間になりたいです。」
高橋氏の半生を聞き、勇気をもらったというコメントが数多くあがった。
中村専任講師は、「いくつになっても明るく前向きにマラソンに取り組む勇市さんの姿を見てもらい、五体満足に育てられた僕らがいかに恵まれているかを、あらためて感じてほしかった。実は、悩みを抱えていたり、障害や持病と向き合っていたりする学生たちもいて、彼らと対話することもできました。以前は僕自身、障害者という存在に身構えてしまっていた頃もありましたが、必ずしも“特別扱い”することばかりがハンディキャッパーへのいたわりではない。目が見えない点について思いやることは当然ですが、大切な友として向き合うことこそ、心のバリアフリーだと思います。2020年にはパラリンピックが東京で開催されますが、みんなにとって少しでも自分事になったらうれしいです」と語る。
年齢や障害は関係ない――夢を持つことの大切さを教えてもらったひと時となった。